HShinkai: His Comment/what I recommend today 2002

Hisaaki SHINKAI Homepage

His Comments (Japanese version/2002)


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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- January 6, 2002

さーて,来週のサザエさんは

 「サザエさん」が元気である.今日は,新春特別とかで1時間枠だった.正月にマスオさんの 大阪の実家に帰る,という話で,マスオさんの母親や兄夫婦が登場,その息子のノリオ君がカツオ と悪ガキさを競うが,最後は涙の別れ,という流れだった.妻君によると,関西弁の発音がへん, とのことだ.大阪人からみたら,クレームも多かろう.サザエさんがはじめて大阪の実家に行った ような,不自然な部分もあったが,そこらへんは目をつむる,というのが,「サザエさん」の楽しみ方の王道だろうか.
 テレビ放送は,今年で33年目,タラちゃんも「来年は幼稚園ね」と言われ続けて30年である. いまだに毎週,視聴率のベスト5に入るという怪物番組だ.なぜか,我が家の子らは,日曜日に なると朝から楽しみにしている.私も「磯野家の謎」と題された研究本の元祖は即購入したし, 嘉門達夫の「NIPPONのサザエさん」のCDも持っている.私にとっての最大の謎は,磯野家の 家電が,いまだに古いままなことだ.いつになったら黒電話機を取り替えるのだろうか.
 昨年後半は,「フネさん,パートタイムを考え始める」とか「マスオさん,別居を検討始める」 など,サザエさん的生活習慣に根元的な改革を引き起こすかもしれないテーマが示されたが, なんら根本的な理由の説明もないまま,元の鞘に収まる,という如何にもサザエさん的な結末 を迎えた.去年の夏は「フネさん,実家・静岡に帰る」編があったので,今年の夏は「波平さん, 九州に帰る」を期待したい.
 しかし世の中には,次週予告の最後にサザエさんが出すじゃんけんの手を, 過去10年間統計を取って分析している人もいるようだ. また,いままで謎と言われた磯野家の間取りや,磯野家の家系図は ここ に,見つけられる.脱帽.

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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- January 26, 2002

さーて,来週のウルトラマンは

 前回のサザエさんの話を書いた翌週,テレビの「サザエさん」は「波平さん,携帯電話 を使う」という1時間特別番組を放送した.なかなか私のエッセイも影響力を持つように なったものだ.そう思うと同時に,web上での発言に関する責任も感じてしまう.
 ついでにテレビネタを続けて書く.最近のウルトラマンも仮面ライダーもストーリーが 高度化して,難しい.子供につきあって数回見たが,片手間に見たのでは何が何だかわか らなかった.今日「朝日キーワード2002」を読んで初めて理解できた.ウルトラマンコス モスは,どうやら怪獣との完全対決よりは共存を目的としていて,怪獣を保護センターに 捕獲して教育しているらしい.それはもちろん,排他よりは共生の方が時代には適合して いるとは思うが,しかし,愛とか勇気とかいうセリフが4歳児の子供に通じているのか不安である.優しい ヒーローよりは,勧善懲悪の方が子供にとって分かりやすくて良かったとは思うけど. まあ,凶暴化する遊びが防げるので,親にとっても便利なことは便利である.
 仮面ライダーアギト第49話....蠍座の星々は、以前にも増して奇怪な動きを続けて いた。すでに蠍の形はとどめておらず,次第に十字架を形成しつつあった。... (国立武蔵天文台での会話)「蠍座のベータ星とガンマ星が急速に動いています. だんだんと形が変わってきます」「これではもう,蠍座と呼べないなあ..」... おいおい,そんな非常事態に,のんきな会話をしている場合かっ.

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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- March 27, 2002

春の課題

 しばらくエッセイをupできなかった.何度も書きかけてはいたのだが, 文章が完成しなかった.昨年の2月から3月までは,アメリカから日本への 引越プロジェクトが進んでいたときで,引越荷物運び出し(2/15)や,家族 の帰国(2/22),一人残務処理に費やした3月や大学でのお別れパーティー (3/16),荷物の到着(3/27)など思い出すことが多すぎ,一人感傷に浸って いた.あれからもう一年経つのかと思うと感慨深い.
 今年はすでに桜が咲き,もう散ってしまった.去年の桜は新居で見たから, 季節的には一巡以上だ.今,新幹線の車窓から雨上がりの空に映える夕刻の 富士山を見て,突如,忙しくても何かしら文章は残しておかなければならないと決心した.

 日本での生活にはすっかり慣れた.だんだんと生活の中からアメリカ臭が 消えてゆき,落ち着いた日本人になりつつある我が家族である.子供達に とっては,日本での年越しは物心ついて以来だったらしい.身に付いた 英語力もkeepして欲しかったのだが,二人ともほとんど忘れてしまったようだ. 一般に帰国子女は,日本に順応しようと潜在的に英語を使わないようになるともどこかで読んだ.
 研究面でも,徐々にスピードが戻ってきた.理研には共同研究者はおらず, 独立経営に近いが,環境面では申し分なく恵まれている.東京圏では研究会や セミナーの類が多く,5年あまり遠ざかっていた,観測分野の宇宙物理学の知識 の吸収に忙しい.知らない分野の話でも何回か聞くと分かった気になるから 不思議である.今年もすでに3回の長期渡航が予定に入っている.一応順調と言えよう.
 大学組織の制度改革が進んでおり,理研も一歩先に独立法人化するようである. 自分の研究を「社会にどう還元していくか」という課題に一層明確に向かわざる を得ない.最近は同業者に高い評価を得られているのではないかと少しは自負は あるのだが,分野が分野ゆえ「社会に還元」しているかどうかまで断言できるか 疑わしい.せめて当面自分なりに情報発信を続けていくのが社会還元に該当する だろうか. そう考えて,サイエンス データベースを立ち上げた.
 運良くポストがつながって3回目のポスドク身分に甘んじているわけだが,ふと 見回してみると,私の分野では私はいつの間にかポスドク最長老になっているようだ. 最近研究者の就職先として,仲間から,高等専門学校や大学での情報関係職にも応募 すべきだとよく勧められるようになった.まだまだ「物理」に関わる職に固執している が,それも来年にはなりふり構わず,となっているかもしれない. 米澤富美子氏が自伝で,旦那氏が「人生の社会的基盤は40で決まる」と自ら猛進して いた話を書いている.私もまだまだ頑張らねば.

 春の課題はいつも少し気が重い.

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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- May 3, 2002

ワームホールは通過可能か?

 SF小説では,よく「空間をワープする」とか「スターゲートを通り抜ける」という 表現で時間をかけずに遠距離を移動する方法が提案されている.ドラえもんの「どこ でもドア」もその一つである.科学的に,こんな瞬間移動もどきの旅行は可能なのだ ろうか?
 小説「コンタクト」を執筆中だったカール=セーガンは,一般相対論研究の第一人 者キップ=ソーンに,真剣にこの疑問を持ちかけたのだという.それまでに,アイン シュタイン方程式の解として,ブラックホールの内部をトンネルにして,時空を貼り 合わせるワームホール(虫食い穴)という構造が知られていたが,このタイプのワー ムホールだと,ブラックホールに入ったきり外に出ることはできない.ソーンと学生 のモリスが到達した結論は,世の中に「負のエネルギー」が存在するならば,他の世 界につながる通過可能なワームホールを考えることが可能だ,というものだった.
 通過可能なワームホールという研究テーマは,こうして80年代の後半に突如登場し た.同時にソーンらはワームホールの出口を光速近くに加速することにより,時間の 連続性も飛び越えるタイムマシンの可能性についての論文を出し,世の中を騒然とさ せた.負のエネルギーは量子ゆらぎレベルでは存在することが知られているが,情報 や人間の伝達に耐えうるまでに大きなワームホールが造れるかどうかは全くの未知で ある.第一,時空のトポロジーを変えるような張り合わせの工作ができるものなのか も不明である.タイムマシンができて,過去に行けることになったら,自分の親殺し に代表されるパラドックスも生じてしまう.
 現実的に考えると,いろいろ困難な問題が山積しているのだが,ソーンのようなお 偉い学者が先陣を切ってくれたお陰で,ワームホール研究が一つのテーマに成り得た のも事実である.その後,アインシュタイン方程式のエネルギー条件についての研究 やパラドックスに関する数学的な理論の進展が行われた.

 さて,最近私は,共同研究者のショーン=ヘイワードと,彼が問題提起した,ワー ムホールの動的な性質についての研究を一つ報告した.これまで,通過可能なワーム ホール解は,計算の都合上,静的なものとして扱われ議論されてきた.つまり,実際 にワームホール解がそれ自身安定で存在し続けられるものなのか,あるいは物が通過 することで壊れることはないのか,という議論が皆無であった.我々は数値シミュレ ーションにより,この問題に挑んだ.問題の設定は簡単なのだが,こちら側の世界と あちら側の世界の二つを解かなくてはならない,という技術上の問題もあり,若干苦 労したが,次のような結論が得られた.
『Morris-Thorneが提案したワームホール解は,不安定なもので,旅行者が飛び込む とそれ自身がブラックホールに化けてしまう.ただし,ブラックホールになる以前に 再び負のエネルギーの物質を投入することでワームホールは維持できるし,旅行者も あちら側の世界に通り抜けることができる』
もちろん,ここでも「ワームホール解が存在していたとしたら」という前提での話で ある.あちら側の出口がどこにあるのか,旅行者が再びこちら側に帰ってこれるの か,という問題も全く分からない.しかし,とりあえず,「通過可能となり得る」と いう結論は,人類の将来にとって夢を与えるもので,サイエンスとしても一歩前進な のではないか,と勝手に自負している.

参考文献(一般向け)
[1] Paul Halpern著 江里口良治訳,「タイムマシン ワームホールで時間旅行」 (丸善,1995)
[2] Kip Thorne著.林一・塚原周信訳,「ブラックホールと時空の歪み」(白揚社, 1997)
[3] Paul Davies著.How to build a time machine,(Viking, 2002)
参考文献(テクニカル)
[4] M.S. Morris and K.S. Thorne, "Wormholes in spacetime and their use for interstellar travel: A tool for teaching general relativity", Americal Journal of Physics 56 (1988), 395-412
[5] M.S. Morris, K.S. Thorne, and U. Yurtsever, "Wormholes, Time Machines, and the Weak Energy Condition" Physical Review Letters 61 (1988) 1446-1448 [6] M. Visser著,Lorentzian Wormholes: From Einstein to Hawking, (AIP Press, 1995)
[7] H. Shinkai and S.A. Hayward, "Fate of the first traversible wormhole", in preprint.

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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- May 23-24 2002

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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- June 21, 2002

ステートカレッジに,HOOTERSできる

 メキシコからの帰り道,ステートカレッジに立ち寄ってみた.航空券の都合で,ピッツバーグからレンタカーで 往復することになったが,ペンシルバニアの森の新緑を目に焼き付けながらの快適なドライブを楽しんだ.
 空港では送迎者がゲートまで入れなくなっていたり,本屋にはテロ事件の追悼本 がいろいろあったりしてこの一年間のアメリカ生活の変容も若干感じられた.しかし大学の町 ステートカレッジは,以前と同じく平和で,順調に発展しているようだった.かつて住んでいた一軒家も, ポストやアンテナはそのままで誰かが住んでいるようだった.どこを走っても懐かしい.環境の良さは日本 と比べ物にならず,やはりまた将来ここを長く訪ねたいと思った.
 驚いたのは,街の一番はずれにHOOTERSができていたことだ.チェーンのレストランで,健康的なお色気の ウエイトレスのおねーさん達が,「Hi Guys!」と笑顔で迎えてくれる所である.設置場所によっては煙たい男 どもしか入れないような場所になりかねないのだが,ステートカレッジでは子連れやカップル・老夫婦で賑 わっていた.店のメニューも結構まともで,日曜は子供無料となかなか口実が揃っていて良心的である. そういえば,アメリカ滞在中に,容姿が理由でHOOTERSに採用されなかった女性が,差別だと訴訟を起こし たこともあったが,それは女性が敗訴したのだった.
 店内では,しつこいくらいにおねーさんがコミュニケーションしに来るので,それが好みのおねーさんなら実 にうれしいことになろう. しかし「そのペプシはどお?」「最高だ」との会話は,一瞬後には虚しくなるのも確かなのだが.
 雰囲気を味わいたい方は, http://www.hooters.com/

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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- July 21, 2002

思い出すのは3年前のベルリン

 3年前に来たときと比べて,ベルリンはずいぶんと都会になった.首都機能が移転したこともあり,次々とビルが建ち並び始め,「普通の」大都会に変貌しつつある.3年前にTegelに初めて着いたときは,ひまわりの花一輪をもって出迎えに来ているカップルの姿が目に付いた.人影もまばらで,タクシーは英語が通じなかった.今ではそんなことはなく,空港内の人口密度もかなり大きい.町の中でも英語が結構通じるようになった.(ベルリン人もきちんと英語を理解しているわけではないのだが,こちらが英語を使っても,恐れず正しく意味を解釈してくれるようになった.).嬉しくもあり,寂しくもある.
 ポツダムの駅には駅ビルができて,大きなスーパーマーケットができた.しかし,ポツダムの町はずれGolmにある,Albert Einstein研究所の周囲は相変わらずであった.用意されたアパートは,以前と同じポツダムの反対側の町はずれReuterstrasseにある.どうしてこんなドイツの片田舎を日本人が一人とぼとぼ歩いているんだろうな,と思わず自戒してしまうような場所である.トラムで3駅,近郊列車で一駅乗り,ポツダムに着く.そして,そこから1時間に1本の列車で10分でGolm駅.何も無い道を10分程歩く.すべて共通のチケット一枚(2EURO)で乗れるのは便利なのだが,これが毎日続くと「通勤」している気分十分である.
 研究所の上空はちょうど国際線の航路になっていて(音は全く伝わらない高度),Tegel着陸直前に実は窓から見つけることができる.研究所は,今では一般相対論研究の世界的な拠点となっており,若い知り合いが多く,滞在した一週間は,普段よりずっと忙しかった.研究所の昼ご飯は,所内の食堂で食べるしか選択肢はないのだが,毎日変わる3つのメニューの英語版能書きが実際と少し違うことに気がついた.聞けばドイツ語メニューを逐語訳しているそうで,英語圏の人間はいつも苦労しているそうである.現地でポスドクをはじめた日本人の伊藤君をつれだして,中華やインド料理,魚料理のレストランにも行った.金曜の夜は,Christiana(オーストリア出身)がギリシャ料理レストランで夕食を食べることを企画し,Hans (スウェーデン), Denis (カナダ), Peter(デンマーク), Hoyoung (韓国), Norma (メキシコ), ??? (インド)というメンバーが集まった.ドイツ人が一人もいないところが研究所の国際性を表している.
 一日だけ観光日ができて,Christianaに勧められてユダヤ博物館に行って見た.この博物館は昨年秋に開館したそうで,斬新な構造の建物である.ユダヤ人の苦難のの歴史が2000年前から展示されており,彼らの不安定な状況が実体験できる(床が斜め・5階まで階段で上る)ような建造物だった.ホロコーストタワーと呼ばれる一室は,音も光もないガランとした5階の高さの吹き抜けで,外界から隔離された空間を静かに体験できる所だった.館内に悲惨な写真があるわけではないが,まだまだこうしたユダヤ人に対する真摯な償いの試みがいまだに続けられていることに感銘を受けた.
 ドイツ人の合理的な生活習慣も少し垣間見た.ベルリンの地下鉄の中で,男の子がピストルのおもちゃで遊んでいるのを見た老人は,それを何も言わず取り上げた.親も男の子も,反省しているようだった.その後,老人がピストルを返したかどうかは分からない.

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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- July 30, 2002

思い出すのは12年前のパリ

 さて,パリである.一泊56EUROというホテルの値段に惹かれ,次の週のコルシカ島での研究会に日程が続いていることもあって,「理論物理」全般の国際会議ついでにパリに一週間滞在することになった.
 初めて海外の国に降り立ったのは12年前のちょうど今日,同じくパリであった.オランダの大学で一夏を交換研修生として過ごすために渡航したのだが,そのついでにイタリアのトリエステに数日滞在する予定を指導教授が探し出してくれ,そのついでに数日スイスのマッターホルンを眺めたくて出発したのだった.一番安かったアエロフロートでシャルルドゴール空港に着き,飛行機で出会った親切な日本人のおばさまに凱旋門まで車で送っていただいた.あらかじめ予約していた(全旅程の中であらかじめ宿を予約したのはここだけだった),凱旋門脇のホテルにたどり着く.夜10時くらいになってもまだ明るい空に驚きながら,初めての時差ぼけを味わいながら,2000円だけ両替をして両替商に500円の手数料を取られたことを思い出す.通じぬ英語に苦労して,乾いた空気に水のボトルを抱え込み,暑さに耐えかねてチュイルリー広場の噴水に裸足をつっこみしばし呆然とした.印象派の絵を見るなら「オルセーの2階」と教えられていたが,「1階」を探し回ったことを思い出す.リオン駅よりシンプロン特急でスイスに向かうとき,隣のホームではオリエント急行に乗る上流階級の家族が見え,特に黒いドレスを着た女性の背中が美しく,ツールドフランスを終えた自転車野郎達と「おおおっ」と言い合ったのだった.パリには結局一日しかいなかった.エッフェル塔もルーブルも,また来るときに,と回らなかった.スイスに入って,高原の涼しさにほっと一息したのを覚えている.
 あまり良い思い出のないパリであったが,今回はホテルを本拠地として長期に身軽に移動できるので,観光できるかな,と少し期待してはいたが,結果から言うとそれほどたくさん市内を回れたわけではなかった.
 パリの会議は,午前中は総合講演,午後はセッションに分かれての講演だった.多くの人は家族で来ており,午後は観光に回っていたようである.一応真面目にいろいろ講演を聞いていた私は,会議が終わった夕方に,エッフェル塔(混んでいたので中には入らず),ロダン美術館,リュクサンブール宮廷公園を見て回り,中日にはルーブル美術館に行った.ルーブルの目玉はミロのビーナスとモナリザである.どちらもすごい人だかり.しかし,少なくとも10分はその場で見つめ続けられるほどの価値のあるものだった.普段写真では見られないミロのビーナスの後ろ姿(半けつ)を写真に納め,モナリザを眺める美しい人々を写真に撮る.ロダン美術館は,ペンステートのDavid君と一緒に回ったのだが,彼のガイドにはパリでのキス名所の一つとあった.残念ながら,美しい人が昼寝しているだけであった.土曜日の午後は,予定が空いて観光に当てられたのだが,結局オルセーに行って,お目当ての彫刻と印象派を堪能して終わった.有名デパートに入れば,あちこち日本語で「新製品」と表示してあるし,日本語で迷子(の大人)の放送が流れているし,なんだかなあ,という感じ.ムーランルージュの前にも行ってみたが,まるで新宿歌舞伎町で,客引きのお姉さんお兄さんがうるさいので即時撤退.一度地下鉄に乗るときに,二人組の男に財布を摺られそうになるが,撃退した.これで通算6戦6勝.(ローマ3,パリ1,ロス1,メキシコ1).地下鉄では音楽隊が良くやって来た.迷惑なのも多く彼らの歩合も悪そうであった.
 パリを歩く女性は,なかなか美しい人が多かった.テレビニュースのアナウンサーも,ニュースの読み方が色っぽかった.石鹸系のテレビコマーシャルでは,女性のトップレスが普通に登場するのにびっくりした.夜中はアダルト物が普通のチャンネルで放映されていたのでもっとびっくりした.
 概して英語は通じないのだが,なんとか生き延びることができた.時々英語で話すと嫌な感情を表す店員もいたが,概して良好であった.絵本の店で「カロリーヌ」「マデライン」の本を探したときは,店員に発音を指導された.EURO通貨も正式に流通し,ドイツでもフランスでも同じお金が使えるのは至極便利だった.

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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- August 20, 2002

go to コルシカ島カルゲーゼ

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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- November 1, 2002

ロスアンジェルスは異国だった

 8年前に初めてアメリカを訪ねた時に過ごした数日は,ロス郊外のパサデナに あるカルテク内の寮だった.時差ぼけで苦しい夜中に,ロック音楽の騒々しさで 外へ出てみると,60歳は過ぎているだろう老夫婦達のおそらく同窓会の真っ最中で, 彼らのダンスパーティが開かれていたのだった.踊り狂う彼らの姿に,アメリカで 最初のカルチャーショックを味わった.
 さて,今回再びカルテクで1ヶ月過ごしたが,何より感じたのは,ここは 「都会である」ということだ.かつてアメリカに住んでいたとはいえ,田舎の都市と, 山の中の小さな町だったので,改めて新しい驚きがいくつかあった.町のあちこちから スペイン語がよく聞こえた.労働者階級が言語によって分化しているのはどうかと思うが, 道路工事も大学内の清掃もスペイン語の人々の仕事のようだった.ゲストハウスの部屋に あるテレビは,地上波しか入っていないようだが,アジア語チャンネルやスペイン語 チャンネルがある.テレビで日本語番組が見られるのは新鮮である.国谷裕子アナウンサーの 番組も部分的に放送されているのだが,間にコマーシャルが入ってしまうのは, まあしょうがないか.週末のイベントを載せた無料新聞も,とても分厚い.イベントが 多すぎて結局なにも選べない.この無料新聞には,女性の宣伝広告が多い.これも都会の 証だろうか.ファーストフードの値段がやや高いように感じられ,ターゲットストアも2階建て. 町を歩く人の体型もそれほど悪くない.日本人も結構見かけるが,みんなツンとしている ところが田舎と違う.日本食レストランもパサデナですでに10軒位あるようだ.本屋には プレイボーイ誌も並んでいて,しかも数カ国語版が置いてある.路上で生活している人も 少なからず見かけたが,治安もだいぶ良くなってきてはいるようだ.(この10年でパサデナの 町での強盗殺人が年60から30に減った,窃盗も年3600件へと4割ダウンという新聞の見出しがあった).
 ハリウッドも治安向上と観光地としての復活を目指して昨年秋にチャイニーズシアターの 横に大きなショッピングモールを開店させていた.グレンデールの町にある大きな ショッピングモールにも,元気なアメリカの姿があった.しかし,公共のバスに乗るには, まだ勇気が必要だし,ダウンタウンでは,リトルトーキョーから少し離れただけで, 歩くのに注意を要する.時折サーチライトをつけて飛び交うヘリコプターの音を聞きながら, 安全が恋しかった.

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(f^^) His Comments (@_@) ---------------- November 2, 2002

全米日系人博物館

 10月の週末の一日,ロスアンジェルスのダウンタウン, Little Tokyo地区にある全米日系人博物館(Japanese American National Museum)を訪ねた. この博物館は1992年にオープンしたもので,日系人の移民開始から100余年を経て, 一世二世の人々の苦難の歴史を展示している.
 簡単に展示内容を振り返ると次のようである.明治時代の中頃から, アメリカでは中国人排斥運動が起こり,日本人の移民が奨励された. アメリカには「金のなる木」があるとまで言われ, 多くの日本人が一財産を目指して渡米した. しかし条件は悪く,日本人排斥運動が起こり, 日本人の土地所有や結婚に制限が課せられてしまう. 写真見合いで多くの女性が移民一世と結婚し,日本人のコミュニティは二世を中心に 独自に成長を続けることになる.そんな折,太平洋戦争が勃発し, 日系人全員が財産を没収されて収容施設に入れられてしまう.二世の中には, 米軍に志願し,日本と激しい戦いをして,アメリカに忠誠心を見せる者も多かった. また,日本人収容政策の違法性を裁判に持ち込む者もおり, その成果もあって44年12月には収容所は法的には意味を失った. その後,米国政府の収容政策への補償が認められるまで30年あまりを要した.

 20年くらい前の映画「地平線」を思い出した.高校時代に(藤谷美和子の初主演 ということで)映画館に見に行ったら,この在米日系人の話だった.(ちなみに, 藤谷は写真見合いをする女性の役ではじめの45分だけ出演,後に日本人収容の頃には 主役が乙羽信子に代わってしまった.)この映画のディテールがどれだけ現実に近かったのか 知りたかったが,残念ながら, 説明役のボランティアの二世おじいさんは,この映画を知らなかった.

 さて,私の最大の目的は,遠縁に当たるBen Kuroki氏の記録の発掘であった. 私の4代前に遡ると,その兄弟に日系移民一世となったKuroki xxx氏につながる. Ben Kuroki氏は,その2世で,太平洋戦争時,米空軍の爆撃手として, 果敢な戦いを繰り広げ,当時アメリカ中のヒーローとなった人物である. Ralph G. Martin著『ネブラスカから来た男--ベンクロキの物語(Boy from Nebraska, The story of Ben Kuroki)』(Harper and Brothers, NewYork, 初版, 1946, $2.50)は, 日本語にも翻訳され,国会図書館にて閲覧することができる. 全米日系人博物館の展示物の中には,Ben Kurokiに関する記述はなく, 付設されている図書室にも資料が見あたらなかったが, 図書館員に資料請求をしたところ,Pacific Citizen紙 (地元英字新聞)が保存していたBen Kurokiに関するファイル一式が見つかった.その中には, 雑誌「Time」が写真入りでBen Kurokiをアメリカ人のヒーローとして報道している記事 (1944年2月7日号),Ben Kuroki自身が1991年12月6日に行ったスピーチ原稿(ネブラスカ州立博物館 での第二次世界大戦展公開式典),を初めとして, Most Honorable Son HARAKIRI The Sotry of Sgt Ben Kurokiと題されたコミック3ページまであった.
 親切な司書の方のお陰で,特別に50枚に渡る資料をコピーできた.ルーツを探れ,の研究活動は,再び加速しそうである.

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Last Updated: 2002/11/30
by Hisaaki Shinkai